音波クラシカル -クラシック入門編-

クラシックの可能性は無限大。それでもやはり敷居は高く、なかなかその世界に入り込むことが難しいのは事実。それならば平易な言葉だけを使い、クラシックを自分なりの言葉で表現してみようと実験していたブログでした。

終わり。

本ブログ『音波クラシカル』ですが、ここらで終わりにすることにしました。

と言いますのも、本編ブログとも言える日記『音波の薄皮』で述べた内容を移植しているブログであることと、そこを敢えてクラシックだけを棲み分けさせる必要も自分の中では無くなってきたからであります。

もともとが「クラシックを読み解く中で自分が考えた内容を記録しよう」と思い、作ったブログではあるのですが、自分が想像していた以上の早さでクラシックが自分の中にすんなりと取り込まれてしまったので、それを他の音楽と別物扱いとして分ける必要も無くなってしまったと言うのが実状です。

生臭い話をすると、このブログは『音波の薄皮』に比較すると、全くと言って良いほどアクセスが得られなかったと言うのもまた実状でありまして。同じクラシックを語った日でも、圧倒的に『音波の薄皮』の方がアクセスが多いのです。

と言うことで、クラシックもポップスもロックもジャズも何から何まで自分の血肉になってしまったので、本ブログの役割は終了!と。

以上、お疲れさまでした、自分。今後も『音波の薄皮』に自由にクラシックの感想やら所見やら何やらを書いていく所存でありますよ。

ブラームス:交響曲第4番 / セル, クリーヴランド管弦楽団

そのリリース当初からなんとなく気にはなっていた。セル&クリーヴランド管のブラームス、そのSACD化。

この組み合わせでのブルックナーに感銘していた自分としては、聴いてはみたいものの価格が高いことがネックになって、結局買わずにそしてつい最近までその存在は忘却の彼方にあった。

たまたまAmazonの中をフラフラしていたところに、まさかの再会。それも大きなディスカウントとたまたま保有していたクーポンを使うことで、入手に踏み切った。何かしらの予感はあったのだろう。

そして、つい先ほど、第4番を聴き終えた。冒頭から音の消える瞬間まで、ただひたすらその音のとりこになっていた。いや、されていた。

なんと目の醒めるようなブラームスか!

統率の取れた軍隊であるかのような行進を見せつけられたかと思うと、春風の中駆け抜ける若き駿馬の運んできた薫りにも似た爽やかさを感じる瞬間もある。

全体として朗々と自信を持って演奏されている様は、正に痛快の一言。

これほどまでに重厚かつ甘露なブラームスを、僕はこれまで一度も聴いたことがなかったのだ。

1960年代と言う、自分にとってはモニタか書物の向う側にある歴史でしかない時代に、これほどまでに現代に訴えかける演奏がなされていたとは、にわかには信じがたい。しかし、いや、これはもう記録されていた音として体験してしまったことなのだ。歴史は事実であった。恐るべし1960年代の指揮者と演奏家よ。

この20世紀半ばの記録物をもって、21世紀も成熟し始めた今に追体験出来ると言う、その技術の進化の素晴らしさにも拍手を送りたい。

演奏が終わった瞬間、一瞬息が止まった。それは1960年代のその演奏に対するスピリットと、2010年代も終わろうとする時期のその技術との融合に対する賞賛と驚きが重なった瞬間に立ち会ったからに他ならない。

これは自分のブラームス観を変える、大きな出来事になった。ここまで書いてもまだ興奮は冷めやらない。とんでもない音世界に自分は放り込まれてしまったのだから。

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シベリウス交響曲全集 / ヤルヴィ, パリ管弦楽団

シベリウスはいつ聴いても難しい。

ブルックナーの神格的難解さを解きほぐす知的作業や、マーラーの構造的難解さを読み解く力が求められる作業とも異なる、シベリウスに対峙する際の独自の難解さがそこに大きな壁となって立ち塞がってくるからだ。

しかし、それは今ここに並べた作曲家と同様、拒絶に繋がる理解不能な世界観では決してない。

むしろその壁が何でなされているのか、その向こうを透視するかのように一音一音に目をこらすと言う行為が、実はシベリウスを楽しむ上での最も重要な所作なのではないかと、この所思うようになってきた。

これまで何度か書いてきたように、シベリウスを聴くにあたってはその自然観を通した清冽な世界、これはファンタジーと呼んでもよい、を感じ取り、またそこに身を横たえることによって見えてくる、何とも謎めいた、世界に存在しない言語を目の当たりにしているかのような感覚を保持した状態で臨むことがふさわしい。

そこには現実世界から生成された混合物が一切排除された、純度の高い、いや、むしろ純粋と言うべき清水が滔々と湧き上がる泉に身を浸し、心身を清める行為にも似ている。それはシベリウスという音楽へ入るための洗礼にも似た行為なのかもしれない。

その清められた心身をもって対峙するシベリウスの音世界は、純粋となった聴き手自身の中に毛細管現象のように隅々にまで入り込んでいく。

そう。シベリウスが難しいのには理由があった。漫然とそれを見るだけでは情報としては何も脳には入って来ない。シベリウスを見るための敬虔なる姿勢。それを胸の奥に一つ、銅鏡のように持ち、磨き上げ、映り込んだものを情報に変え、音として捉える。

儀式めいた手順ではあるが、その一瞬一連のイニシエーションを持つことで、足を踏み入れることを許される。そのような厳しさがあるからこそ、シベリウスがシベリウスとしてあるのではないか。

自分が感じ取っているシベリウスの難しさとは、こう言った意味合いを含んでいるのかもしれない。

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J.S.バッハ : 無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータ (全曲) / イザベル・ファウスト

ファウストの演奏は、バッハの深淵、そのこんこんと湧き出る音の泉を映し出す鏡。無伴奏であることで、譜面に描かれたバッハならではの音階が浮き彫りにされ、その意図するところ、心境、場面、それらが全て剥き出しにされる。その神経に触れるかの如く演奏が、聴き手である自分にはね返り、自分とは何者であるか、そしてこれからどこへ向かっていくのかと、その内面へと否応なしに向き合うことを要求される。

演奏家は流れていく音の一つ一つをなぞりながらもえぐり取り、その全ての音が聴き手との両者にとって意味をなすものとなる。音を追っていたはずの耳は、知らずうちに内省の時間を浮遊することに置き換えられ、自らの中にあるユニヴァースを測る行為へと昇華される。

時に音へと引き戻され、そして時に時空間を超えるまでの解放を持つ、その懐の広い演奏を前に、ややするとちっぽけでしかない自分を実感させられるかもしれない。しかしバッハの音楽が紡がれ引き継がれてきた時間を前にしたならば、やはりそれは正しいのだ。

2018年に生きる自分がどこに今いるのか。バッハだからこその音のコースターに乗り、そして探っていく旅への切符。それがファウストが描き出すバッハが与えてくれる、一枚の大きな世界地図ではないだろうか。

J.S.バッハ : 無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータ BWV 1001-1006 (全曲) (J.S.Bach : Sonatas & Partitas BWV 1001-1006 / Isabelle Faust) [2SACD シングルレイヤー]

J.S.バッハ: 無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータ BWV.1001-BWV.1006 (全曲)<アンコール・プレス完全限定生産>【SACD Single Layer】

ベートーヴェン:交響曲第5番&第7番 / クライバー, ウイーン・フィルハーモニー管弦楽団

カルロス・クライバー指揮、ウイーン・フィルハーモニー管弦楽団によるベートーヴェン交響曲第5番&第7番。エソテリック発売のSACDより。

クライバーには一度は触れておかないとならないだろうと思いつつも、その書き口が自分の中では難しく、なかなか手をつけられずにいた。

今回発売されたこのディスクを聴いて、改めてクライバーによるベートーヴェンに惚れ直したので、もうこれはどれだけ稚拙であっても書くしかないだろうと。

誤解を恐れずに書くと、非常にマッチョ。しかも滑らかにスケーティングするマッチョ。しなやかなマッチョ。まとめると、スポーティーなマッチョ。

そのように楽団の音を紡ぎ、クライバーでしか表現出来ないであろう溌剌とした音を作り上げてくる。

クライバーが作り出す音は、クライバーにしか作れない。類似性のない、唯一無二の音作りなのだ。確かに録音として残された数がそう多くはない指揮者なので、音源自体が限られては来るが、不思議と「クライバーの音」は存在する。それは「クライバーの流れ」のようなものなのかもしれない。

クラシックに重要な要素の一つに「流れ」があるのではないかと、最近思うようになってきた。人の耳、集中を途切れさせないような流れ。その流れは音の流れにも密接に結びつき、まとまりあげられて楽曲としての大きな流れとなる。

そのような流れの根幹にあるのが、クライバーが持つ、独特の美麗な滑らかさなのだろうと思うに至るわけだ。クライバーの流れに乗り、オーケストラが独特に機能する。そして「クライバーの音」が出来上がる。

流麗である、としか言葉が出てこない自分の語彙の低さにがっかりするとともに、それほどまでにクライバーが作る世界は表現出来るレンジが広いのだ。

残念なことに、クライバーを知ったのは氏が亡くなったと言うニュースでだったのだが、今、このように新たなブラッシュアップをされた音源を聴くことが出来ることには感謝をしたい。それだけの価値がある指揮者なのだろうと。

と、筆もお茶も濁したところで、最後にこのディスクの特徴を。

既発のドイツ・グラモフォン盤SACDと比較すると、ダイナミクスも柔らかさも余裕も段違いに磨き上げられている。非常に凛とした音作り。クライバーの本領発揮的な雰囲気に仕上げられ、気分が高揚してくる演奏を引き出すことに成功している。ぜひとも一聴を。

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リンク先は2018/12/15現在、当該ディスクの在庫があるショップ。在庫切れの際にはご容赦を。